Ⅰ 介護福祉実践の理念と哲学

1 掛け替えのない人生への全人間的な支援

 ここでとらえる“全人間的”とは,包括的(holistic)という意味で用いられる“全人的”にとどまることなく,すべての人間が基本的人権を享受し,自らの生き方に関する中心軸と方向性を自ら管理し,人生体験を享受して,そこから得られた気付きと学びを更に自らの生き方に生かし,人生の思い出を大切にしつつ,豊にするとともに,自己を超越する世界へも思いを致して,人生の意義と死生観へも思い至る,人間としての尊厳と個人としての尊厳を統合した概念である。それを大切にすることができ,すべての人から尊ばれると共に,すべての人を大切にして尊ぶことのできる権利が,“全人間的権利”である。「リハビリテーションとは障害者が人間らしく生きる権利の回復,すなわち『全人間的復権』にほかならない」(上田敏著「リハビリテーションを考える」青木書店,1983,p.ⅲ),「リハビリテーションは,もともとは教会から破門をされた人の権利回復を意味した。ミサ,聖餐は教会の中心的生命であるが,ミサにあずかる権利を喪失した人がその名誉を回復し,再び中心的生命にあずかることである。リハビリテーションの原語ハビタスは,機能の回復ではなく,人間の存在がそこで認められる全人間的回復を指す。その存在が認められる場所,居住する環境をハビタティオという。リハビリテーションとは,その居住する地域において障害者がその存在を確保するということになる。」(阿部志郎「福祉の哲学[改訂版]」誠信書房,2008,p.85)とされるが,それには,必然的に「人間らしく生きる権利」,しかも「わたしらしく生きる権利」,すなわち人間としての尊厳と個人としての尊厳を統合して生きていくことのできる権利たる“全人間的権利”が前提となる。それは,自然と社会の環境と共にあって,「人間らしく,しかもわたしらしく」生き,固有の人生を創造的に体験していく上での基盤である。ここでは,一人ひとりの掛け替えのないご本人が,その限りある尊き人生において,無限の可能性を有し,感じ,気付き,思い描いて統合された内外によって生成される“体験”において,本質存在たる超越的な存在とのつながりにも思いを致し,すべてと同時に,一体として生き, 社会的な責任と義務をも有する市民たる権利主体として,“人間としての尊厳と個人としての尊厳をを保持し,人生の目的を実現していく権利”,と言う意味で,“全人間的権利”と用いているのである。介護福祉職がたずさわる介護福祉実践とは,ご本人が自らの良さをより良く生かすことのできる幸せな生き方を創造し,実現していくために必要な“全人間的権利の行使の自由を保障するため”に,ご本人の生き方にかかわる全容の肯定的な理解に基づき“本意に応じて真の意向に沿おうとする”全人間的な支援なのである。


2 生きる意味への肯定的理解を深める支援

 介護福祉実践とは,応用に耐え得る基本を一般的な手がかり(参考)としつつ,ご本人の暮らしを通して,ご本人の尊厳を確保し,ご本人の本意に応じて真の意向に沿い,ご本人にとっての生き方の自由度を高めるために,ご本人の生き方に関する全容を肯定的に理解しつつ,ご本人と共に生きていく実践である。仮に,家族や親類・縁者から縁を切られ,近隣からも反感や敵意を抱かれていたり,すぐにけんかになってしまうためにボランティアからも見放されていたりしている上に,経済的にも逼迫しており,非常に暮らしにおける困難さを抱えているにもかかわらず,独りでその困難に立ち向かい続けざるを得ないご本人だとしたならばどうか。そのようなご本人もこころ豊かに暮らしていくことができるためには,介護福祉職という,ご本人にとって「わたしらしい良さをより良く生かすことのできる幸せな生き方」を支援する専門職の存在意義があるのだ。もっとも,ご本人の生き方に関する全容の肯定的理解は容易ではない。介護福祉職とて,偏見の芽や利己的な芽を固有する人間であることには変わりはない。そこで,介護福祉職は,常に自らのこころに根付いていて,ぬぐい去りきれない偏見の芽を察知し自らを諭し戒め続けていかなければならない。それは,介護福祉職が,人倫に上乗せされた専門職業的な道徳と使命(職業倫理:専門職として何をしなければならないか,何をしてはならないか,をわきまえた言動がとれることの宣誓)の根幹となる介護福祉哲学を身につけているからこそ可能となることである。


3 人生の思い出を大切にする支援

 人間のこころは,時として時空間をも超えて過去と現在,そして未来において一体である。それは自らの夢想の世界を顧みれば体験的にも創造に難くないところである。それゆえに,人間の人生は、掛け替えのないご本人にしかない内面の世界をも一体として肯定的に理解していく必要がある。それと共に,一人ひとりにかかわるあらゆることがいかに変化・生成しつつ有機的に一体となって,一人ひとりの人生を織りなしているのかを肯定的に理解しようとして研鑽し続けていくことが求められる。人生には,すれ違いざまに想いを交わし合ったほんの一瞬の体験が,生涯にわたって大切な記憶としてこころに深く残っていくこともある。夢の世界で体験した出来事や交わし合った言葉とふれあいが生涯にわたってこころの“よすが”となって大切な役割を担い続けていく場合すらあり得るのである。人生の思い出は,本来,いたる時,いたる所に秘められており,それにこころをつなげることができれば,それを手がかりとしてそのすべてと思いを通わし合うことが可能となる。人生はそのあらゆる時において一体である。人生の思い出が豊かであること。それは ご本人の掛け替えのない人生の価値にも通じる。介護福祉職としてのご本人とののかかわりも掛け替えのない人生におけるすべての思い出と一体になっていく。その人生におけるどの思い出にもその人生のすべてがつながりを織りなす。本来,思い出とはそのように深遠なる人生とのつながりと一体として織りなされる唯一無二の人生において紡ぎ織りなされたご本人だけのこころの “ころも” なのである。ご本人が思い至り,こころを致す人,自然,場所,体験,夢,物語,芸術,哲学,思想,宗教,世界などを大切にし,それへの思いと,それらとの思い出やつながりを大切にしていくことは,ご本人の人生を尊ぶことでもある。


4 人生の継続と再出発への支援

 人間は,通常,自らの主体性(identity)を大切にしつつ,新たな人間関係にも自らの人生の歩みがそのまま反映されることを望む。もっとも,その一方で,その人生の歩みが辛かったり腹立たしかったりして,非常に不本意なことから,新たな人間関係においては,それを継承したくない,あるいは,自らがよしとする仮想に置き換えた歩みでつなぎ,人生を再出発する契機としたい,と願っている場合もある。一人ひとりの人生への支援は,ご本人がどのように生きたいのか,どのように自らの人生を生かしたいのか,といった思いにもよる。もっとも,ご本人は,そのために必要な自律度と自由度にも影響される。ご本人の生き方は,ご本人の人生なるがゆえに自らの判断に資する多角度的で分かりやすく整理された正しい情報を得てご本人が自ら決め,自由にコントロールできなければならない。ご本人にとって,自らの人生を継続しようとするのか,再出発しようとするのか,その“本願”である「わたしらしい良さをより良く生かすことのできる幸せな生き方」と共にあろうとする支援が求められるのである。


5 人生の夢を大切にする支援

 人間は夢を見る。夢で見た内容は思い出せなくてもその夢想の世界で体験したイメージは残像のように覚醒後も現実世界におけるご本人のこころもちに影響を及ぼし得る。楽しかった夢,幸せだった夢,辛かった夢,悲しかった夢,衝撃的だった夢。それらは,その余韻を漂わせる。なかには覚醒後もしっかりと覚えている夢もある。夢想の世界では,時として実際の時空間とは異なる自らと人物そして事物も登場してくるものである。実際には歳を取っているのに若い頃の自らであったり,スーパーマンのように空を飛ぶことができたり,メルヘンの世界にいるような奇想天外な,あるいは夢から覚めても笑いが止まらなくて覚醒後も笑い続けているほどおかしかった夢想であったり(これを隣で寝ていて気付いた人はどうしてしまったのかとさぞかし驚くことであろうが)若くて元気だった頃や幼かった頃の家族と共にいたり,既に先立ってしまった人が元気に登場していたり,現実にはいない知らない少女が家族の一員として加わっていたり,現実には見たことも会った覚えもない人とかかわっていたり,テレビや映画などの映像や写真でしか知らない人と親しくかかわっていたり,または,現在とは異なる過去に経験した役柄や立場に基づいていたりそれを引き継いでいる場面を体験していたり,経験したことのない役柄や立場における場面を体験していたり,経験したことのない未知の場所や場面を体験していたり。あるいは,正夢にもつながるような近未来の夢を経験していたり,歴史上の偉人と対面して会話していたり,夢想の世界での行きつけの店や町並みがあったり,夢想の世界でやっとの思いでトイレに駆け込んで小水をすませたと思ったら“おねしょ”をしていて覚醒したり,そもそも今見ているのは夢想の世界だと見破ってしまって覚醒したり,などといった具合である。さらには,大げんかをしたので,それが好ましくない意味での正夢にならないように現実世界で特定の行動を意識的に避けたりすることさえある。その個人の内面においては,まさに夢想の世界と現実の世界はつながっており相互作用しているのである。個人が抱く夢もまた,その現実世界と共に在る。人間は夢の世界においても生きているのである。それは,信教にも通じる。夢がある,ということ,夢の世界とも共に在ると言うこと。そのことを無視してはならない。もっとも,ご本人にとっての夢想の世界は,ご本人のみが体験できるもので,現実世界に起こったことではない主観的体験における事実を具体的に知ることは,いかなる現実世界の事実に関する情報を収集しアセスメントしようとも明確には不可能である。もっとも,夢想の世界に不可能はなさそうなのだが,実際には現実の世界における状況と通念に,ある程度は規定されている。それゆえ,現実とかけ離れているほど,体験できる可能性も豊かになる。そのことに,思いを致し,精神的存在者でもある一人ひとりの“こころの世界”に畏敬の念を抱いてかかわらなければならない。夜空を見上げてそこに満天の星が輝いていたとしても,その掛け替えのない一つひとつの星とはどのようなものでそこではどのようなことが実際に起こっているのかという(天の川が太陽系の属する銀河を周辺内部から見た様相であることまでは知り得たとしても)中身までは分からない。ましてやそれは宇宙において目でとらえることのできた,ほんの一部分に過ぎない。分からないことの方がはるかに多く,そのすべてと人間の主観的中心軸も一体として存在しているのである。


6 生きる目的と暮らしとのつながりを見いだす支援 

 介護福祉実践は,ご本人にとっての生きる(原動)力となる生きる目的とのつながりを,暮らしのなかにご本人と共に見いだしつつ,生き甲斐を確かめ合っていく実践である。それは,ご本人の生き方に関する全容とのつながりと,体験できる事物,一挙手一投足,一言一句,そして表情や態度の機微に至るまでの意味合いを共に豊かに見いだしていこうとするかかわりでもある。介護福祉職は,ご本人にしか知り得ない世界をも有するご本人に畏敬の念を抱くとともに,個を超越する本質存在にも思いを致し畏敬の念を抱いていく。介護福祉職のかかわりとは,共に生きる現実存在としての具体的なかかわりを通して,一人ひとりのご本人にとっての生きる(原動)力となる人生の目的とのつながりを常に大切に生かし,そのつながりの意味合いへの肯定的な共通認識を得て,共に憂いよりも喜びを多く見いだし合っていく共有体験の創造であり,ご本人と共に互いの人生における接点を共有し合いながら生きていく人生の歩みである。このように介護福祉実践とは,暮らしのなかにご本人にとっての生きる目的を見いだし,そのつながりの意味合いを共に見いだして,共に喜び,共に憂い,分かち合いつつ,憂いをも喜びに結びつけ,喜びを豊かにしていく実践である。


7 ご本人にとって我が意を得た生き方への自由度を高める支援

 介護福祉実践とは,ご本人の生き方に関する全容において暮らしに不自由をきたす状況があっても,本来享受されるべき自由な生き方を社会的に保障していくために,ご本人が生きていることへの価値と生きていくことへの希望を抱き,ご本人にとって「わたしならではの生涯を全うできる生き方」への自由度をご本人の暮らしとのかかわりを通して高めていく実践である。介護福祉実践にたずさわる介護福祉職は,ご本人にとっての“生き方”と“生きる意味”にかかわる“自由度”を高めていくために,平和共存できる社会を基としつつ,主に社会との関係を通した幸福の追求に関して社会福祉職を始めとしたご本人の生き方の全容にかかわる多様な専門職や地域住民とも連携協働する。ご本人とその家族の健康の回復・維持・増進へ向けては,医療職とも連携協働していく。傷病が生き方の自由度を妨げる場合,医療資源を活用し,検査・投薬・手術などによる診療を受けるためにご本人が自らの人生における入院生活という場において退院するまで短期的に医学的な管理の下で療養上の世話を受けていくことも必要になる。もっとも,医療的な問題を主な要因とはせずに,暮らしにおいて,ご本人の許容範囲を超えて制約が加わり,不自由な状況が生じている時,その生活上の自由度を高めて不自由な状況を解決していくためには,ご本人の生き方を支援する介護福祉資源が有効となる。自由な生き方に必要な自由度にかかわる状況は個人によって,社会によって,時代によって,しかも時と場合によって異なる。その自由にも全容にかかわる量と質があることから,調和の取れた量と質の高い自由の支援が求められる。介護福祉職は,ご本人の肯定的理解者に徹していくことで,介護福祉の視座から,ご本人の人生と共に在りご本人と共に生きる人間として,ご本人にとっての生き方に関する自由度への制約を解決する支援や,ご本人に関する全容のダイナミックなコンディションにアプローチして,その活性化を支援し,人生の思い出を豊かにすると共にその価値を高めていくことにもかかわる。介護福祉実践は,ご本人の自由な生き方を支援することをその本来の専門的基盤とする実践であって,ご本人の人生における暮らしと共にあり長期的に(人生を通して)ご本人の自由な生き方に向けてかかわっていくことによってその専門性が遺憾なく発揮される。


8 本意に応じ真の意向に沿おうとする支援

 掛け替えのないご本人の本意に応じ真の意向に沿おうとする支援を実践していくためには,掛け替えのないご本人が自らの本意に基づいた生き方への思いを安心して表明できるように,ご本人が適切な判断材料を得ることができ,それを理解した上で生かしやすいように配慮された支援と共に,ご本人の真の意向が尊重される環境を整えていくことが前提となる。支援者は,ご本人から「わたしの」理解者と認められるところがなかったならば,そのかかわりには距離を置かれることになる。「はい」「いいえ」の了解に基づきつつもそれが表面的なご本人本位によるものであったならば「本当は逆なのだけれど」,「本当は尋ねられた意味がよく分からなかったのだけれど」,「本当は判断材料がなかったので判断しかねたのだけれど」,「本当はその時の状況によるのでどちらとも決めかねたのだけれど」と言ったことがあり,そもそも,その出発点と方向からして誤解したまま,それをご本人の意向の根拠として支援を進めてしまいかねない。そもそもご本人も意向はあからさまではなくオブラートに包みながらほのめかしている場合が多いのだ。介護福祉実践では,ご本人にとっての「わたしだったならば」をその都度,その訳をも含めて肯定的に理解しようとしてかかわっていく。「わたしだったならば」は,あくまでもご本人自らの意思表示であり,支援者が「もしもわたしが○○さんだったならば」と置き換えて考えることは,ご本人の本意を理解するための参考であって手がかりにすぎない。しかも,ご本人自らがまさに「わたしだったならば」と判断したり決めたりして既に意思表示していることでも,それは,過去のものであり,それさえも,参考であって手がかりにすぎないのである。人間も環境も常に変化していることから,只今のかかわりごとにご本人の主観・主体(Subject ・ Identity)に照らし合わせてご本人に判断していただける余地を保証していけなければならない。時と場所と場合の状況や体験に応じてとらえ方や気持ちが変わることもある。生きているということは自然と社会と共に変化しているということである。ご本人の生き方に関する全容を理解しようとしても,只今ご本人はどこにいて何を見,何とどのようにかかわっているのか,その内面の世界の実際は只今のご本人にしか分からない。しかもそのご本人にさえも分からないのが現実世界であり,さらには本質世界なのだ。それは人知を超越した未知の可能性に満ちているからである。介護福祉実践におけるご本人の生き方に関する全容の肯定的理解は,霊性に包まれたご本人の人生と共に在って現在・過去・未来が一体となった進行形の“ご本人にとっての只今”と共にある。


9 個人の生き方と社会の在り方を融和していく支援

 掛け替えのないご本人とその家族が,暮らしを維持していくために切実なる事情と毎日向き合っていかなければならない現実に置かれていたならば,地域社会に目を向けている余裕がないことも多い。かかえている不自由さと困難さに向き合っていくだけで精一杯といった実状にあって必死に生きている場合もある。もっとも,そのようなご本人とその家族からすれば必然的に生じる状況も,他人からすると迷惑だったりすることもある。住み慣れた地域社会において良好な人間関係を保ちそれをさらに豊かに発展させていくことのできる当事者ばかりとは限らないのである。そこで,第三者的立場にあるべき介護福祉職による介護福祉サービスは,そのようなご本人と家族にとって重要な理解者たる支援者となり得る。誰もが人間に値する名誉と個人の尊厳の維持にかかわる全人間的権利を犯されることがあってはならない。利害関係はあるにせよ受容的ですべての人が暮らしやすい共生社会へ向けて,互いを認め合うことのできる地域づくりへの支援が求められる。ご本人の生き方を社会的に支援していく介護福祉職は,孤立しがちなご本人とその家族の社会参加へ向けて個人の生き方と社会の在り方を融和していく支援者としての役割をも担い介護福祉を実現する介護福祉社会の構築に向けても貢献していくべき専門職である。


10 豊かな人間関係を築き多様な人的資源を活用していくことのできる支援

 通常であれば,ご本人とのかかわりの長さと深さに応じて,ご本人の生き方に関する全容とその豊かなつながりの一体的な意味合いを少しずつ洞察することができるようになっていく。認知症の症状のある人の生活支援を介護のスタンダードにしたとらえ方は福祉施設における家庭的な生活の支援に役立つとされるが,一方で,活動的な生き方を目指す人からすれば,それは保護的であってご本人が主体的に豊かな人間関係を築き多様な人的資源を活用していく上での機会を狭めてしまいかねない。日常的にかかわる人が限定されるほど,地域社会に開かれた福祉施設でなければならない。もっとも,福祉施設に居住するご本人が地域社会の多様な人と日常的にかかわり個人的に親しくなっていくことは容易ではない。職員や原則無償のボランティアのみに頼らず,自ら人的資源をまかなおうとしても経済的に余裕のある居住者だけとは限らない。家族的な居住空間は一見すると良さそうでも,相性的な事情や依存的な関係性を生じかねない嫌いもある。ユニットケア化されていなかった頃の福祉施設では,居住者間においても日常的に広い交流の機会を持ち得たし,福祉施設の全職員も全居住者と個別にかかわることのできる機会があり得た。福祉施設の人的資源において,ご本人が日常的に自らかかわらせる人を選択する余地が多少なりともあり得たのである。ユニット化は一人の職員がご本人に関して有し得る影響力を拡大し独占化・密室化する嫌いを生む危険性をはらんでいる。本来,福祉施設においては効率性のみではなく一対一以上のかかわりを可能にする介護福祉職の昼夜を問わない人員配置が求められる。福祉施設における居住者の生活基盤が豊かであるように,ご本人と家族が暮らしの場についての不安を抱かなくても済むように,介護保険制度などにおいても継続的な居住権を保障すべく制度の柔軟な運用や介護保険制度の溝を埋める自由で質の高い民間サービスの開発・提供や措置による社会保障の柔軟な実施も必要である。

11 共に在り共に生きる体験を共有していく支援

 加藤信朗は,「平和なる共生の世界秩序を求めて」知泉書館,2013,pp.156-157において,キリスト教を通して「それゆえ,この「新約の二つの掟」が「共生の正義」を実現する普遍的律法であることをわたしたちは認めなければならない。それは,この地上でのわたしたちの生命が,わたしたちにひとしく与えられた「恵み」であり,各人の「私有すべき権利」ではなく」,この地上で生命を共にするすべての人のために「用いられるべき委託」であることを承認することである。そこに全地表の人々すべてを「親愛の絆」で結ぶ「共生の全地球共同体(communitas omnium gentium)が実現される希望が約束される。」と論じている。宗教は人間の生命をも超越的にとらえさせ得るのだ。人間は,言語や宗教, 政治的信念や生活信条, 民族的な主体性などの文化・風土と共に在る。介護福祉実践を通して,ご本人と共に生き合った体験は,生涯を通して思い起こすことのできる貴重な思い出として生き続けていく。それが介護福祉実践の本質であり,共に生き合った証なのである。人間が理解できる範囲をはるかに超越した真実でなければ,なにゆえに,すべてがあるようにしてあり,いのちあるものが生まれるようにして生まれ,生きるようにして生き,死すようにして死すことができるのか,という問いに対する答えの実際を知り得ない。それゆえに,無限なる悉皆によって創造された有限なるいのちは,そこにおいてあらゆるすべての人間が悉皆と一体でありつつ同時に比較されない固有の尊い存在としてとらえられ得るのである。




Ⅱ 介護福祉実践の在り方


かかわりから肯定的理解を深めようと研鑽し続けていくことのできる介護福祉実践

(1) たゆみない自己研鑽による理解
 ここで,認知症によって記憶機能に障害が生じていることから,同じ話を繰り返すご本人とのかかわりを例に挙げて考えてみたい。福祉施設で暮らしているこのご本人が介護福祉職のAに,こどもの頃に天橋立へ両親に連れて行ってもらい,そこで一緒に頭を股の下から逆さ向きにして景色を眺めた思い出をうれしそうに話して下さったとする。その際に介護福祉職のAは,自らの見識を最大限に生かし認知機能を大いに働かせてその思い出の時と共に在るご本人の心情を察して共感しようとすることだろう。傾聴する態度と和やかな表情で,あたかも,只今,その時空間に共にいるように,ご本人の体験を自らも体験しているように,こころを通わし合おうとすることだろう。そのなかから,自ずとわき上がる情景は,自らも実際に体験した何らかの想い出にも通じていき,互いの異なった思い出をもつなげていくことだろう。もっとも,どんなにそのように努めたとしても,ご本人の思い出話を通したそのかかわりの場面が過ぎ去ってみれば,もっと,より豊かに共感して話を弾ませることができたのではなかったか,と反省することだろう。だが,通常そのかかわりは一回性のものであることから,始めから映画のカットを撮り直すようなわけにはいかないのである。しかしながら,そのご本人がその同じ思い出話を,前回,介護福祉職のAに話したことを全く記憶しておらず,再び初めて話すつもりで繰り返したとすればどうか。しかも,それがやがて101回目を数えたならば。実はそこにこそ介護福祉実践の本質が現れるのである。すなわち,介護福祉職のAは,100回のそのかかわりの経験を生かして,101回目ならではの,ご本人の心情を肯定的に理解し,こころ豊かに共鳴し得る100回の手がかりとその省察に基づき,101回目を新たなかかわりの機会として共に大切に尊び,さらにその思い出を通した掛け替えのない体験を生かし,ご本人の人生に関する全容とのつながりを豊にしつつ,未知の人生体験の創造として,その只今を共に味わっていくのである。つまり,介護福祉職のAは,そのご本人が繰り返す思い出話とのかかわりを2回目,3回目と回を重ねていくごとに,ご本人を尊び,肯定的に理解していこうとして全身全霊を捧げてかかわりつつ,そのかかわりを終えるごとに,そのかかわりの機会が得られたことと,その実際から気付き学び得た手がかりに感謝して,たゆまぬ自己研鑽を積み重ねて来ているのである。当時のご本人とご本人の両親について, その頃の暮らし向きや当時の世相について,あるいは,天橋立とその地理や歴史の知識,逆さに景色を見るという見方の由来,などを図書館やインターネットで調べたり,家族や知人に聞いたり,そこへ行ったことのある他の人からも話しを伺ったり,(可能であれば自らも機会を得て実際に天橋立に行って体験して来たり,ご本人が希望するなら天橋立への再訪を支援していく)などすることだろう。介護福祉職のAは,そのようにして,100回の体験を生かした101回目ならではのかかわりを豊かに深めていこうとすることだろう。このような在り方が,ご本人とのかかわりから肯定的理解を深めようと研鑽し続けて行くことのできる介護福祉実践である。

(2) 生き方に関する全容の理解
 ここで,方位に関するゲームを例に挙げて考えてみたい。現在地点を円の中心地点として,北,北北東,東北東,東,東南東,南南東,南,南南西,西南西,西,西北西,北北西,の12の方向にそれぞれ4キロメートル進んだ所にある一里塚には,それぞれに1箇所ずつ掲示板がある。但し,このゲームに出場できるのは1名のみに限定されており,その12箇所すべては,その都度,中心点から出発しなければ辿ることができず,しかも,12箇所それぞれに,専門分野の異なった謎解きを問いかけるスフィンクスがいて,その謎解きに答えられないと通してくれないとする。①:そのなかの1箇所だけに12個の順番に並ぶ暗号文字記号が記されている掲示板が設置されており,それを正確にすべて控えて中心点まで戻るとその暗号解読マニュアルがもらえ,指示内容がわかる。この場合,始めの1箇所目で暗号文字記号を探し当てることのできる確率は12分の1である。(もっとも,1名だけですべてのスフィンクスの謎解きに答えられるかは疑問であることから,必ずしも12分の1の確率で解読結果までたどり着けるとは限らない。)一方,②:そのすべての一里塚の掲示板に暗号文字記号が1文字記号ずつ記入されており,しかも北から順番に時計回りにその12個の暗号文字記号をすべて正確に控えて中心点まで戻ると暗号解読マニュアルがもらえ,指示内容がわかるとする。この場合,始めのどの1箇所のみでも暗号を解読して指示内容を把握できないのみならず,1箇所でも抜かすと暗号を解読して指示内容を正確に把握することはできないため,調べる順番は任意としても12箇所の一里塚をすべて調べ尽くさなくてはならない。(もっとも,1名だけですべてのスフィンクスの謎解きに答えられるかは疑問であることから,12箇所すべてを回っても必ずしも解読結果まで辿り着けるとは限らない。)掛け替えのない一人ひとりのご本人の生き方に関する全容の肯定的理解に際しては,①のように,確率的な理解の仕方,そこでいかにしてその確率を高められるかに視点を向けようとするアプローチと,②のように悉皆を調べようとしてすべての理解にいかにしたらたどり着けるかに視点を向けようとするアプローチ,それらに加えて,このゲームのルールでは認められないものの,標本抽出によるサンプルを通した推測によって理解しようとするアプローチがある。もっとも,それは,加工されるほどに精度を落とすことになる。効率と成度の高い推測は科学的ではあるが,科学のみでは理解しきれない個別の人間と,実際のかかわりを通して肯定的に理解していこうとするならば,本来は,12箇所の一里塚をすべて回る地道さと共に,12箇所のスフィンクスの謎解きに答えられるような豊かな自己研鑽が求められるのである。掛け替えのない一人ひとりの人間の人生には,無視してしまっても良いような無意味な人生体験は一つとしてない。ご本人にとって無視して捨て去ってしまいたいと思える人生体験であったとしても,それでさえもその人生を成り立たせている生涯という欠くことのできない要素なのである。ただ,それがご本人のすべてではないだけである。ご本人にとっての人生の意味とは,一断面のみから容易に規定されるほど乏しいものではない。それだからこそ,人間は,障害をも受容し得るのである。それは,共に平和な社会にあって互いを尊び合って幸せな生き方をしていくために,あらゆる自己像をも受容できる可能性と,あらゆる他者像をも受容できる可能性の織りなしである。個体がとらえることのできる体験は,厳密には感覚器官でとらえることのできた間接的現象による。人間は,その符号を脳で意訳している。そこで,特別な時空間内にある現実的な個体的存在としての実存的な体験的主観はもとより,個別を超克した一般の時空間にある普遍的な本質存在たる悉皆という真実にも思いを致し,それらを一体として受け入れていかなければならない。