『web課題3』

『あの人』との物語


2020年(令和2年)4月16日


 

『あの人』との物語


 Aさん(60歳)は、外傷性脳損傷の後遺障害のために片麻痺となり、利き手が不自由です。
 家族はおらず、親戚とも疎遠です。
 生活保護を受給し、障害者支援施設で暮らしています。
 Aさんは、毎週1回、商店街へ車椅子の介助を得て買い物に出かけています。
 先週は雨だったので、リフト付きの自動車に乗せてもらって買い物に出かけてきました。
 きょうは穏やかな天気です。
 以前にAさんが
「もう少しゆっくりして来れたらなぁ」
と言っていたことを 気に留めていた、個別支援担当のB職員が、きょうの買い物に同行することになりました。
 そこで、このあいだ、車椅子でも通れる近道が出来たことを知っていたB職員は、Aさんの了解を得て、きょうは、その近道を通って商店街へ行きました。
 そのため、10分ほど早く着けたのですが、なぜかAさんは、不機嫌でした。
 それとなくB職員が理由を尋ねたのですが、Aさんは応えてくれませんでした。
 B職員が、そのことを他の職員にも伝えてみたところ、C職員が、
「それはきっと、『あの人』に会えなかったからでしょう」
と言いました。
 『あの人』とは、天気の良い日に 途中で通り抜けて行く公園のベンチに腰かけて、手元で何かを見ている女性でした。
 最近になって、買い物の往路の時間帯に公園に入ると、『あの人』がそこに居て、いつも温かい眼差しと優しい声で、Aさんに
「こんにちは」
と、すてきな笑顔であいさつをしてくれていたのです。
 それは、往きすがらの、ほんの一瞬のことだったのですが、Aさんにとっては、むしろ、買い物をして来ることよりも、天気の良い日に外出して来ることの、一番の楽しみになっていたのです。
 ところが、B職員が今回、買い物に行くの際に通った近道は、その公園を通り抜けない行き方だったのです。
 きょうも穏やかな天気です。
 再び買い物外出に同行することになったB職員は、
「近道をしてもあまり変わらないので」
と、Aさんの了解を得て、今まで通りの道を通って行くことにしました。
 途中で公園に入ると、幸い『あの人』は、きょうもベンチに腰かけて手元で何かを見ていました。
 そして、Aさんに笑顔で
「こんにちは」
と、あいさつをしてくれました。
 そこで、B職員は、Aさんが乗っている車椅子を止めると、『あの人』に向けて
「きょうもいい天気ですね」
と声をかけてみました。
 すると、『あの人』は、笑顔でB職員に
「だいぶ暖かくなってきましたね」
と応えるなり、Aさんに
「お散歩ですか?」
と温かい眼差しと優しい声で 問いかけてきてくれました。
Aさんは、
「買い物をしてくるところです」
と応えるなり、『あの人』に、
「何を見ているんですか?」
と問いかけました。
 『あの人』は、温かい眼差しと優しい声で、
「思い出なんです」
と応えてくれました。
 『あの人』が手元で見ていたのは、タブレットでした。
Aさんが
「こどもの頃の?」
と問いかけると、『あの人』は、
「いいえ、去年までウィーンに居た頃の写真です」
と応えて、ウィーンの街並みやおいしい食事のことなどを楽しく話してくれました。
 Aさんが、
「ずうっと一人でいたの?」
と尋ねると、『あの人』は、
「そうです」
と応えました。
 Aさんが、
「話し相手はいたんでしょ」
と続けると、『あの人』は、
「ええ、話し相手なら」
と応えました。
 Aさんがさらに、
「だけど、日本にはとってもいい親友がいそうだけど」
と言うと、『あの人』は、一瞬声を詰まらせたかと思うと、堰(せき)を切ったように 大粒の涙を浮かべました。
 『あの人』は、
「実は…」
と声を詰まらせると、
「わたしの親友は、わたしが一時帰国した際に、一緒に出掛けた先で事故にあって…」
「わたしも、その時に右手を痛めてしまって…まだ以前のようには しっかり動かないんです」
と言うと、少し笑顔を取り戻し、
「彼女とは幼稚園から中学まで一緒で、帰り道に、よく この公園に立ち寄って、ベンチに二人で腰かけて、楽しくおしゃべりしたり、歌を唄ったりしていたんです」
と打ち明けてくれました。
 そして、『あの人』は、気を取り直したように
「こんな風に歌ってたんです!」
と、笑顔で
「ハイホー」
を口ずさみながら、ベンチから立ったり座ったり、肩を組んだりするしぐさをして見せてくれました。
 この日、買い物外出から帰ってきたAさんは、
「何とかして『あの人』の力になりたい」
と思い、B職員に その思いを伝え、何かできることはないか、二人で相談し合って、次の週に買い物へ行くまでに準備を整えておくことにしました。
 Aさんは、B職員の介助を得て、折り鶴を二つ作って『あの人』にプレゼントすることにしました。
 一つは、『あの人』の親友のために。
 もう一つは、事故にあって動きにくくなっている『あの人』の右手が、以前のようにしっかり動くまでに回復しますように、との祈りを込めてです。
 それとともに、今度『あの人』と出会えたら、公園のベンチに一緒に座らせてもらって、「ハイホー」を二人で肩を組んで歌うこと。
その際、ハイホーの掛け声で 互いに立ち上がったり座ったり、また体を横に ゆすったりするところを、B職員に支えてもらって行えるように、練習をしておくことにしました。
 天候に恵まれたきょう、いよいよ、買い物へ行くことになりました。
 普段にも増して身嗜(みだしな)みを整えたAさんが、B職員と公園に入ると、幸い、『あの人』がベンチに腰かけていました。
 『あの人』は、待っていたかのように、親しみにあふれた表情で、Aさんに
「こんにちは💛」
とすてきな笑顔であいさつをしてくれました。
 Aさんは、『あの人』へ
「少しお邪魔していいですか?」
と言って許しを得ると、
「わたしは、片手が全然利かなくなってしまっている上に、もう片方の手もぎこちないのですが、職員のBさんに手伝ってもらって作ってきました」
「プレゼントしたいのですが、受け取ってもらえますか?」
と言いながら、
「これは、親友のために」
「これは、動きにくくなっている右手が以前のようにしっかり動くまで回復するように」
と、折り鶴を一つずつ手渡しました。
 そして、さらに、Aさんは、はにかむように
「このあいだ、教えてもらった「ハイホー」を練習してきたので、一緒に肩を組んで歌わせてもらってもいいですか?」
と申し出て 許可を得ると、B職員の介助で、『あの人』のすぐ横に座らせてもらいました。
それから、Aさんの動きを支えて介助してくれるB職員も一緒になって、立ったり座ったりしながら三人で楽しく声を出して「ハイホー」を歌いました。
 その後、『あの人』を見かけなくなって数か月が経ちました。
 きょうは、久しぶりに秋晴れとなった穏(おだ)やかな日です。
 Aさんの買い物にB職員が同行して、いつものように公園に入ると、
そこには、『あの人』がいました!
 『あの人』は、Aさんの姿を見ると、待ちかねていたように ベンチから駆け寄って来るなり、生き生きとした満面の笑顔で
「こんにちは!」
「この間は、本当にありがとうございました!」
と言いながら、クリスマスコンサートのチケットを、そのリーフレットを添えて、AさんとB職員へ手渡してくれました。
 そのリーフレットには、なんと!『あの人』がピアノを演奏している写真で飾られていました。
 『あの人』は、
「わたしがオーケストラと一緒にピアノを演奏しますので、よろしかったら是非 お二人で聴きにいらして下さい」
「車椅子に座ったままでも ご入場いただけますから」
と懇願するように申し出ました。
 それは、左手のみでピアノを弾くために作曲された、ラヴェルのピアノ協奏曲でした。
 実は、『あの人』は、国際ピアノコンクールで1位になり、ウィーンを拠点に活躍していた 新進気鋭のピアニストだったのです!