更新 2017年(平成29年)11月3日

 かつて、SONYのウォークマンを聴いて「実際の音よりいい」と言った著名な指揮者もいたそうだが、チェリビダッケは、晩年にドキュメンタリー映画「チェリビダッケの庭」でアムステルダム映画祭審査員特別賞を受賞した息子のイオアンの映画制作者・監督としての価値観を認め、ドキュメンタリー映画を見る価値としては受け入れる形で、LD(レーザーディスク)によるライブ演奏の映像実録の販売のみ、ミュンヘン・フィルハーモニーの楽団員との思い出になれば、そして楽団への役に立てれば、との無私の思いやりから、自らの信念を曲げて承諾したものの、録音のみの商品販売は、その後も生涯拒否し通した。

 それは、チェリビダッケにとって、演奏とは音楽を通した真実への祈りであり、おのおののパート奏者が互いに聴き合おうとすることなく覚え知る曲をひたすら自らのパートのみに目を向け、寄せ集めの精神でそれぞれが楽譜通りに没交渉で演奏することではなく、音楽が奏でられ(機械的にベスト録音を再生しようとしているようにではなく)演奏者が創造的に新たな耳と こころによる感動をもって指揮者が導き吹き込む精神へとこころを一つにして音楽が生まれている実際の真実の体験からこそ真実を実体験し得る可能性が生じるのだ、と信じていたからである。

 そういった意味で、チェリビダッケにとって音楽とは共に創造の場にあって実体験するものであり、録音商品という工芸からは本来の演奏で体験しようとしていた真実は生じ得ない、それは別物と別所における疑似体験に過ぎず、かえって繰り返して同じ演奏を聴くことによって価値観が定型化されてしまい、悪影響をもたらしかねないということを懸念し、その信念は売り渡さなかったのである。

 それは、音楽産業と名だたる音楽家がタイアップし、音楽ハードとそれに呼応する音楽ソフト商品を資本を投入して開発しつつその保証書代わりに最新技術の秀逸さと、その音楽家の輝かしい経歴、そして音楽評論家からの好意的な高評価を謳って商品価値を高め、販売キャンペーンを張って売り込み、その向きから御用達的な看板音楽家として重用・援護されイメージアップも図られながら、巨額の利益を得るとともに楽壇における名声も確固たるものとして保証されていく、と言った意味でのサクセス・コースに乗った道ではなかった。

 チェリビダッケは、昔ながらの地道な音楽という いのちある芸術そのものを尊んで追究し、常に実際の演奏会を目指して、生涯を捧げ(音楽ソフトのベストテイク作りとは異なる)一度限りの音楽芸術の創造の場としての演奏会当日の音楽と共にある道を歩み続け、音楽業という仕事の側面からの、儲け重視、効率重視、労働条件重視、という時代の趨勢に逆らっても、そのために納得のいくまで、有限なるいのちを有する人間という芸術家が有限なるいのちを有する演奏という芸術作品を創造していくために必要なプローベ(稽古)を修行するように重ね、たとえ楽譜を初見で演奏できる奏者を前にしていたとしても、その演奏能力を生かして演奏者の一人ひとりが自律的に音楽と感応しながらも曲全体と一体として調和できるようにその精神性を高めた上で、演奏会において聴衆と共に「正にこれ」という真実を体験しようとしていたのである。

 チェリビダッケの録音を聴くとき、少なくとも、何らか自らのこころを向けて内面で語り合っていけるように努めていきたいものである。チェリビダッケが演奏者と演奏会場の聴衆とともにこころを専らにして実体験しようとしていた真摯なる尊厳をないがしろにすることなく、録音を聴こうとする こころえが一瞬たりとも必要、と考える。録音のみの販売を拒否していたチェリビダッケの信念に思いをいたし、音楽の いのちの尊さに畏敬の念をもってチェリビダッケの録音を拝聴したいものである。

 もっとも、チェリビダッケが没してから既に20年経つものの、1954年にチェリビダッケが戦後復興に努め10年に渡って指揮をしたベルリン・フィルと決別した42歳の頃、ヴェネチアで合唱曲を指揮していた時に唯一生涯で一度だけ体験することができたという、「始めに終わりがある体験」(曲の全楽章が究極的に一体であると言うことの実体験)をし、それを生涯追究し続けたチェリビダッケの精神を直に受け継ぐ音楽家あるいはそれに通ずる音楽家のコンサートを実際に体験することができれば、その悉皆から生じ得る真実を今でも実体験できるかも知れない。

セルジュ・チェリビダッケ ― 介護福祉実践に資するチェリビダッケの肯定的理解 ― 
わたしが著した論文です。
東海学院大学紀要 (9), 27-45, 2015(査読有)
上記CiNii(サイニー)Articleでは表題のみですが、東海学院大学機関リポジトリから全文をご覧いただけます。

指揮者セルジュ・チェリビダッケ
下記のブログ記事をわたしのホームページhttp://www.celibidache.jp/page2へ転記したものです。
ブログは逆順表記のため、その1 から その8 及び 追記 まで読みやすいように順番に表記しています。
ただし、iPhoneなどですと文字化けするようですので、パソコン画面でご覧下さい。

指揮者セルジュ・チェリビダッケ
わたしが自らの Yahoo! Japan ブログに投稿した評論
「指揮者セルジュ・チェリビダッケ」 その1 から その8 及び 追記 です。
逆順で表示されていますので、その1 まで遡って順番にお読みいただくことをお勧めします。

齋藤代彦ーFacebook
 わたしが開設しているフェイスブックから 2017年(平成29年)4月7日に、わたしが投稿した記事です。

 高瀬佳子さんのピアノリサイタルが5月26日(金)と28日(日)に大阪府高槻市で開演されます。ピアニストの高瀬佳子さんは、指揮者チェリビダッケ没後20年を迎えた2016年における12月4日の演奏生活25周年記念コンサートで一気にシューマンのイ短調とベートーヴェンの第5番「皇帝」コンチェルトを演奏しました。高瀬佳子さんは、ミュンヘン国立音楽大学大学院(マスタークラス)での留学中に、ドイツ人の音楽を日本人がドイツ人の音楽精神に基づいて演奏すべきことが要求されることに悩んでいた折りに、ドイツ人ではないルーマニア人の、しかもベルリンフィルと1954年(昭和29年)11月に決別する直接の契機ともなったブラームスのドイツレクイエムや1992年(平成4年)に、リヒャルト・カール・フォン・ヴァイツゼッカードイツ連邦共和国大統領から直々の願い出によりルーマニアの孤児・養護施設へのチャリティーコンサートとして唯一ベルリンフィルの指揮者として復帰しローマカトリック教会の敬虔な信者だったブルックナーの交響曲第7番を指揮した仏教徒で、「私は資本主義者でも共産主義者でもない。ただの自由人(フリーマン)だ。だから死ぬ時も自由だ」と発言していたチェリビダッケが、そのようなことを超越する至高な演奏をドイツのミュンヘンフィル首席指揮者・音楽監督として追究していたプローベやゲネプロそしてコンサートを直接聴いたりチェリビダッケの指揮者講習会にも参加した体験を通して(指揮者講習会には広く門戸が開かれており従来からピアニストも参加していたのです)クラシックピアニストとしての自らの在り方の精神的支柱となる貴重な手がかりを得ていったようです。チェリビダッケが大切にしていた音楽観の理解者である高瀬佳子さんは、現在も一貫して楽譜を暗譜し曲全体の一体性と各部の個性を理解した上で音楽の真実をこころの体験として生起するために精進を積み重ねています。もちろんイ短調も「皇帝」も暗譜による演奏でした。ですから、高瀬佳子さんのピアノ演奏は、楽譜を正確に音に翻訳することのみを目指した通訳的(間接的:客体的・部分的)な美しさだけの演奏(コンピューターで楽譜を正確に読み取りそれに対応した各パートの楽器音をコンピューターが、そもそも従来の演奏録音記録ソフトウエアであるCDの再生ではなく、インプットされた楽譜自体から直接的に音を発生させて毎回寸分たがわず同じ演奏を再現するような意味において「完璧」な人工的バーチャル演奏:さらにそれへ選択的に加味し得る、ピアノ演奏のミケランジェリ風、ホロビッツ風、あるいは、指揮のフルトヴェングラー風、カラヤン風など、楽譜通りに音を発生させる上において一切人間という生身のいのちを要しないコンピューター・アレンジ・バージョン、はたまた、ロボットピアニストによるピアノの生演奏)ではありません。音楽芸術をその向きに特化した能力として捉えたならば、今年の4月1日(エイプリルフールニュースではありません)現役の佐藤天彦将棋名人(29)がコンピューターの将棋ソフトに敗れたとニュース報道されたその日が、作曲家による作曲能力、指揮者による指揮能力、ピアニストなどの演奏者による演奏能力においても、さらには鑑賞者による鑑賞能力においてさえも、やがて訪れないとは限りません。もっとも、悉皆なる “天(あま)つ真実” において いのちという繋がりを有し、有限なるも無限の掛け替えなき可能性を秘めて生涯変化し続ける人間が、自己はもとより全人類をも超越する不可思議な何らかが在ると感じるような霊性(スピリチュアリティー)体験を通してこそ得られる こころの手がかりは、人間の英知を持ってしても この世の中の全ての仕組みと生命自体を創造し得ない人類が その “不可知なる偉大さ” に全身全霊を捧げてこそ得られる不可思議さとの繋がりからの現れは、悉皆との繋がりから生まれたのではなく有限なる人類の英知に基づく科学技術によって人工的に生み出された量子コンピューターを持ってしたところで有限から無限を生み出すことは出来ず その全てが包容されている悉皆との繋がりを有する いのちに偽りなくして得られようもありません。高瀬佳子さんは、確かな演奏能力を極めつつ、楽譜を手掛かりとして作曲者が惹きつけられて記譜した “魂の原風景そのもの” を自らも感じ取り、自らの中にも原初的に存在している根源的な精神性をもって楽曲に全身全霊を捧げて音楽の真実を体験しようとする実体験的(直接的:主体的・一体的)な演奏(高瀬佳子さんが演奏しなければ実現し得ない音楽体験)を目指しているのです。高瀬佳子さんは、音をこころとして奏でて音楽という真実のいのちを生起しようとしているのです。高瀬佳子さんのコンサート会場では音を手掛かりとしてこころが奏でられているのです。高瀬佳子さんのコンサート会場にいるとそのこころそのものがまるでテレパシーを感じ取るかのようにわたしのこころに直接伝わってきます。それによって自己を超越した霊性(精神性:スピリチュアリティー)を体験できる手掛かりがその演奏を聴く鑑賞者であるわたしに もたらされるのです。鑑賞者のこころが演奏者のこころと一になったとき、そこには いのちあるものだからこその真実:悉皆との繋がりを有するスピリチュアリティーな体験が生じ得ます。高瀬佳子さんが奏でるこころの音楽をより深く聴くためには鑑賞者側にもこころ清らかに拝聴できるような精進が求められます。精進した者の集うコンサート会場では互いに高め合うことができるのです。わたしは指揮者チェリビダッケと一度も会うことはできませんでしたが、高瀬佳子さんのピアノ演奏を直に聴くことを通してチェリビダッケが “音楽の真実” を生起しようとして指揮していた演奏におけるのと同じ体験が得られる可能性に出逢えることに喜びを覚えています。高瀬佳子さんは、ピアニストとしての生き方ができ、夫である作曲家の十河陽一先生を生涯の伴侶とすることのできる幸せに感謝しつつ、その音楽に奉仕する人生からの恵みをすべての人と共に分かち合いたいと願い、ピアノ演奏を通して愛と慈しみのこころを捧げ続けているのです。高瀬佳子さんのこの度のピアノリサイタルは、開催第24回目(各1回の開催につき金曜日と日曜日の2回ずつの公演として定着した「素顔の作曲家シリーズ」)です。公演会場は、JR高槻駅の松坂屋側のすぐ近くにあるSTUDIO73(地階はスペイン料理店サン・セバスチャン)です。コンサートホールではなくライヴハウスですが、ドイツのグロトリアン製のグランドピアノが置かれています。サロン的な雰囲気で演奏者を身近に感じながらピアノリサイタルを楽しむことができます。どちらかと言うと金曜日よりも日曜日のチケットの方が早く予約完売となる傾向があるようです。下記URLは高瀬佳子さんのホームページにおける高瀬佳子ピアノコンサート第24回素顔の作曲家シリーズ「作曲家はピアノと親密に対話する」の案内記事です。
http://yoyo.moo.jp/yoshiko/c_series/c_series24.html